約100年も続いた戦国時代の乱世を終わらせ、日本の統一を進めたのが織田信長(おだのぶなが)と、その後を継いだ豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。
二人は、武力だけでなく、社会の仕組みを大きく変える画期的な政策によって、天下統一という大事業を成し遂げました。
尾張(現在の愛知県)の小さな大名だった信長は、「天下布武(てんかふぶ)」(武力によって天下を統一する)という印を使い、次々とライバルを打ち破って勢力を拡大しました。
● 桶狭間の戦い(1560年): 大軍を率いる今川義元を奇襲で破り、一躍有名になりました。
● 室町幕府の滅亡(1573年): 追放した将軍・足利義昭をかくまったことで、室町幕府を滅ぼしました。
● 長篠の戦い(1575年): 大量の鉄砲を効果的に使い、当時最強とされた武田の騎馬隊を破りました。
● 安土城の築城: 琵琶湖のほとりに豪華な天守を持つ安土城を築き、政治と経済の中心としました。
信長は、武力だけでなく、経済を活性化させることで国を豊かにしようと考えました。
城下町を活気づけ、商業を自由に発展させるため。
楽市: これまで市場で商売をするには税金(市場税)が必要でしたが、これを免除しました。
楽座: これまで商工業者は「座」と呼ばれる同業者組合に所属しないと自由に商売ができませんでした。
信長はこの「座」が持つ特権を廃止し、誰でも自由に商売ができるようにしました。
安土の城下町などでは多くの商人や職人が集まり、商業が活発になりました。
これによって信長は大きな経済力を手に入れ、天下統一を進めるための強力な基盤を築きました。
しかし、信長は天下統一を目前にした1582年、家臣の明智光秀に裏切られ、京都の本能寺で自害しました(本能寺の変)。
信長の死後、その事業を引き継いだのが、農民出身の家臣であった豊臣秀吉でした。
秀吉は、明智光秀を討って信長の後継者としての地位を確立し、巧みな交渉と圧倒的な武力で、ついに天下統一を成し遂げます。
大阪に巨大な大阪城を築き、本拠地としました。
朝廷から関白、ついで太政大臣の位を与えられ、天皇の権威を利用して全国の大名を従わせました。
四国、九州、そして関東の北条氏を倒し、1590年に全国を統一しました。
秀吉は、全国の支配を確実なものにするため、全国の田畑を統一した基準で測り直す大規模な調査を行ないました。
秀吉は関白を退いた後、「太閤」と呼ばれたため、これを太閤検地と呼びます。
全国の土地からの収穫量を正確に把握し、年貢を確実に取り立てるため。
ものさしと枡の統一: 全国の測量に使うものさし(検地竿)と、米の量をはかる枡(京枡)の大きさを統一しました。
石高の算出: 土地の面積だけでなく、土地の良し悪し(等級)も調査し、その土地からとれる米の予想収穫量を「石高(こくだか)」という単位で表しました。
検地帳への登録: 土地を実際に耕作している農民を検地帳に登録し、その農民に年貢を納める責任を負わせました。
貴族や寺社が土地を支配する荘園制度が完全に終わり、全国の土地は石高という統一基準で示されるようになりました。
これにより、大名の領地の規模も石高で表され、その石高に応じた軍役を負担させられることになりました。
秀吉は、農民が武器を持つことを禁じ、社会を安定させようとしました。
農民から武器を取り上げて、一揆(農民の反乱)を防ぐため。
農民を農業に専念させるため。
京都に方広寺というお寺の大仏を作るという口実で、農民が持っている刀や槍、鉄砲などの武器を差し出させました。
太閤検地と刀狩によって、「兵農分離(へいのうぶんり)」が進みました。
これは、武器を持って戦う武士と、土地を耕して年貢を納める農民という身分が、はっきりと区別されるようになったことを意味します。
これにより、武士が社会を支配する仕組みが確立されました。
織田信長は、楽市・楽座などで経済を活性化させ、天下統一の基礎を築きました。
豊臣秀吉は、その事業を引き継いで全国を統一し、太閤検地と刀狩によって全国の土地と人々を直接支配する仕組みを作り上げました。
この二人の政策は、戦乱の世を終わらせ、その後の江戸幕府による安定した社会の土台となったのです。