聖武天皇(しょうむてんのう)(在位724年~749年)が政治を行っていた頃、都や地方では、人々の心を揺るがすような災厄が相次いでいました。
九州で隼人(はやと)の反乱が起こるなど、朝廷の支配に対する抵抗がありました。
朝廷内でも、権力争いが激化し、長屋王(ながやおう)の変といった政治的な事件が起こりました。
天候不順によって農作物が育たず、多くの人々が飢えに苦しむ飢饉が頻発しました。
特に、天然痘(てんねんとう)という強力な感染症が大流行し、当時の人口の約3分の1が亡くなったとも言われています。
朝廷の政治を担っていた藤原氏の四兄弟も、この病で全員亡くなってしまいました。
人々の間には、「これは国が乱れる前触れではないか」「何かの祟りではないか」という、深い不安と絶望感が広がっていました。
このような社会不安を鎮め、国を一つにまとめるため、聖武天皇は篤く信仰していた仏教の力に頼ることを決意します。
これは、「仏教の偉大な力によって、国家を災いから守り、平和と安定をもたらしてもらおう」という考え方です。
聖武天皇は、人々の不安を和らげ、国を救うためには、個人の力ではなく、仏様の巨大な力が必要だと考えたのです。
この「鎮護国家」の思想を具体的に形にするため、聖武天皇は2つの壮大な国家プロジェクトを命じました。
741年、聖武天皇は、全国の各国(当時の行政区画)に、国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を一つずつ建てるように命じました。
国分寺: 男性のお坊さん(僧)のお寺。
国分尼寺: 女性のお坊さん(尼)のお寺。
国のすみずみにまで仏教の教えを行き渡らせ、全国規模で国の平和と繁栄を祈るためでした。
これらのお寺は、その国の仏教の中心であると同時に、地方の文化の中心としての役割も担いました。
国分寺の建設は、律令国家の支配が全国に及んでいることを示す象徴でもありました。
国分寺の総本山として、そして鎮護国家思想の最大のシンボルとして、都である平城京に巨大な寺院と大仏を造ることを命じます。
全国の国分寺を束ねる「総国分寺」として位置づけられました。
聖武天皇は、「一枝の草、一握りの土を持ってでも、大仏造りに協力したいと願う者は、誰でも参加を許す」と全国民に呼びかけました。
これは、税として強制的に人々を働かせるだけでなく、国民一人ひとりが自らの意思でこの国家プロジェクトに参加し、心を一つにすることを目的としていました。
「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」と呼ばれるこの大仏は、宇宙の真理そのものを表す仏様で、その力で国全体を照らし、守ってくれると信じられていました。
しかし、重い税に苦しむ人々にとって、巨大な大仏造りはさらなる負担でしかありませんでした。
そこで、朝廷は、民衆から絶大な信頼を得ていた僧侶・行基に協力を求めます。
行基は、全国をまわって大仏造りの意義を説き、多くの人々(延べ260万人とも言われる)の協力と寄付を集めることに成功しました。
752年、ついに大仏は完成し、その魂を入れるための盛大な儀式「開眼供養」が行われました。
この式典には、天皇や貴族だけでなく、インドや中国などアジア各地からの使者も参加し、国際色豊かな壮大なイベントとなりました。
東大寺の境内には、この時代の宝物を収めるための正倉院という校倉造(あぜくらづくり)の倉庫が建てられました。
ここには、聖武天皇ゆかりの品々や、唐、西アジア(ペルシャ)、東ローマ帝国などから伝わった国際色豊かな工芸品が、奇跡的に現在まで残されており、当時の文化の高さを今に伝えています。
奈良時代前半は、反乱や飢饉、疫病の流行など、社会不安が広がっていました。
聖武天皇は、この危機を仏教の力で乗り越えようと考えました(鎮護国家思想)。
その具体策として、741年に全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じ、
さらに、その総本山として平城京に東大寺と大仏(盧舎那仏)を造ることを決めました。
この大仏造りには、僧・行基の協力によって、多くの民衆が参加しました。
752年に完成した大仏は、仏教の力で国を一つにまとめようとした、奈良時代の国家権力の象徴でした。