藤原氏は、大化の改新で活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖先とする、由緒ある貴族です。
平安時代、特に9世紀後半から11世紀にかけて、藤原氏は巧みな方法で他の貴族を退け、天皇との関係を深めて権力を盤石にしていきました。
その最大の武器となったのが、「外戚(がいせき)」という立場を利用した方法です。
外戚になるための戦略:
まず、藤原氏は自分の娘を、天皇の后(きさき)として嫁がせます。
その娘と天皇の間に男の子(皇子)が生まれるのを待ちます。
そして、その皇子が次の天皇として即位するのを待ちます。
外戚になると、なぜ強いのか?
新しく即位した天皇にとって、藤原氏の当主は「母方のおじいさん」にあたります。
天皇がまだ幼いうちは、このおじいさんが天皇に代わって政治を行うのが当然とされました。
また、天皇が成人してからも、おじいさんとして非常に強い発言力を持つことができました。
このように、藤原氏は天皇の母方の親戚(外戚)となることで、天皇を後見する立場から政治の実権を握っていったのです。
藤原氏が行った、この外戚としての立場を利用した政治のやり方を「摂関政治」と呼びます。
これは、2つの重要な役職の頭文字をとった言葉です。
摂政(せっしょう)
天皇が幼いときや、女性(女帝)であるときに、天皇に代わって政治を行う役職。
関白(かんぱく)
天皇が成人した後に、天皇を補佐するという名目で、事実上の最高権力者として政治を行う役職。
藤原氏は、この摂政と関白の地位を独占し、親子代々で受け継いでいきました。
これにより、天皇は形式的な存在となり、政治の重要な決定はすべて藤原氏によって行われるようになりました。
摂関政治が最も華やかだったのが、11世紀前半の藤原道長(ふじわらのみちなが)と、その子の頼通(よりみち)の時代です。
藤原道長:
彼は、自分の娘を次々と天皇の后にし、4人の娘が后となり、3人の天皇のおじいさんとなりました。
これにより、道長は絶大な権力を手に入れました。
彼が詠んだ有名な和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」は、「この世は、すべて自分のためにあるようなものだ。
満月が欠けていないのと同じように、何も足りないものはない」という意味で、彼の栄華の頂点を象徴しています。
藤原頼通:
道長の後を継いだ頼通も、約50年間にわたって関白として権力をふるいました。
彼は、父・道長が建てた法成寺(ほうじょうじ)をしのぐ、壮麗な寺院を宇治に建てました。
これが、現在も10円玉のデザインとして知られる「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」です。
栄華を極めた摂関政治ですが、11世紀後半になると、その基盤が揺らぎ始めます。
藤原氏と天皇の血縁関係が薄れた:
頼通の娘には、天皇となる男の子が生まれませんでした。
その結果、藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。
天皇親政の復活:
後三条天皇は、藤原氏に遠慮することなく、荘園整理令を出すなど、自ら政治を行おうとしました(天皇親政)。
院政の始まり:
後三条天皇の子である白河天皇(しらかわてんのう)は、さらに一歩進めて、天皇の位を幼い子に譲り、自らは「上皇(じょうこう)」となって政治の実権を握り続けました。
これを「院政(いんせい)」と呼びます。
この院政の始まりによって、摂関政治は実質的に終わりを告げ、政治の中心は藤原氏の手から、上皇(院)へと移っていくことになります。
平安時代、藤原氏は自分の娘を天皇の后にすることで外戚となり、権力を握った。
天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白という役職を独占して政治を行った。
これを摂関政治という。
11世紀前半の藤原道長・頼通の親子が、摂関政治の全盛期だった。
11世紀後半、藤原氏を外戚としない後三条天皇が登場し、その後の院政の始まりによって、摂関政治は衰退した。