江戸時代は260年以上続いた平和な時代でしたが、その間、幕府の財政が厳しくなったり、社会が乱れたりすることが何度かありました。
そこで、幕府が政治を立て直すために行った大規模な改革が3回あります。
これを「三大改革」と呼びます。
いつ?: 8代将軍 徳川吉宗(とくがわ よしむね)の時代(18世紀前半)
目的: 幕府の財政赤字を解消し、武士の生活を安定させること。
主な内容:
質素倹約の奨励: 武士や庶民に「ぜいたくはやめて、お金を大切に使いなさい」と命じました。
新田開発: 新しい田んぼをたくさん作り、米の収穫量を増やそうとしました。
上米の制(あげまいのせい): 大名に米を幕府へ献上させる代わりに、負担の大きい参勤交代の江戸滞在期間を半分にしました。
公事方御定書(くじかたおさだめがき): 公平な裁判を行うための基準となる法律を定めました。
目安箱の設置: 庶民の意見を直接聞くために、投書箱を設置しました(小石川養生所という無料の医療施設も、この目安箱への投書がきっかけで作られました)。
結果: 改革は成功し、幕府の財政は一時的に回復しました。
吉宗は「米将軍」とも呼ばれ、幕政を立て直した将軍として高く評価されています。
いつ?: 11代将軍 徳川家斉の時代。
中心となったのは老中の 松平定信(まつだいら さだのぶ)です(吉宗の孫にあたります)。
(18世紀後半)
背景: 田沼意次という老中が商業を重視した結果、賄賂が横行して政治が乱れ、さらに天明のききんで多くの人々が苦しんでいました。
目的: 享保の改革を手本とし、武士中心の真面目で厳しい社会を取り戻そうとしました。
主な内容:
厳しい倹約令: 非常に厳しくぜいたくを取り締まりました。
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と皮肉られるほどでした。
囲米の制(かこいまい): ききんに備えるため、各地の大名に米を蓄えさせました。
棄捐令(きえんれい): 借金で苦しむ武士(旗本・御家人)を救うため、借金を帳消しにしました。
朱子学を正学とする(寛政異学の禁): 幕府の学校では、上下関係を重んじる朱子学以外の学問を教えることを禁止しました。
結果: 厳しすぎる改革は、武士や町人たちの反感を買い、世の中の活気を失わせてしまいました。
そのため、長くは続かず、松平定信は失脚しました。
いつ?: 12代将軍 徳川家慶の時代。
中心となったのは老中の 水野忠邦(みずの ただくに)です。
(19世紀前半)
背景: 国内では天保のききんや大塩平八郎の乱が起こり、国外からは外国船が接近(アヘン戦争の情報も伝わる)するなど、国内外で危機感が高まっていました。
目的: 幕府の権力を強化し、財政と国防を立て直すこと。
主な内容:
厳しい倹約令と風俗統制: 歌舞伎や浮世絵などの庶民の娯楽まで厳しく取り締まりました。
株仲間の解散: 物価上昇の原因は、商人の同業者組合である株仲間が商品を独占しているからだと考え、解散を命じました。
(しかし、逆に流通が混乱し、景気は悪化しました)
人返しの法: 江戸に集まった農民を、強制的に故郷の農村へ帰らせようとしました。
上知令(あげちれい): 江戸・大坂周辺の重要な土地を幕府の直轄地にしようとしましたが、大名や旗本から猛反対されて失敗しました。
結果: 政策はどれも現実と合わず、社会を混乱させただけで失敗に終わりました。
この改革の失敗により、幕府の権威は大きく揺らぐことになります。
| 改革名 | 享保の改革 | 寛政の改革 | 天保の改革 |
|---|---|---|---|
| 中心人物 | 徳川吉宗(8代将軍) | 松平定信(老中) | 水野忠邦(老中) |
| 手本 | (なし) | 享保の改革 | 享保・寛政の改革 |
| 主な政策 | 上米の制、新田開発、目安箱 | 厳しい倹約令、囲米、棄捐令 | 株仲間の解散、人返し法、上知令 |
| 結果 | 成功(財政が一時的に回復) | 失敗(厳しすぎて反感を買う) | 失敗(社会が混乱し、幕府の権威が低下) |
この三大改革は、いずれも幕府の財政難という共通の課題から始まりましたが、根本的な解決には至りませんでした。
特に天保の改革の失敗は、人々の幕府への信頼を失わせ、幕末の動乱へとつながっていくきっかけの一つとなりました。