710年、元明天皇(げんめいてんのう)が、都を藤原京(ふじわらきょう)から平城京(へいじょうきょう)に移したことから、奈良時代が始まります。
(~794年まで)
「なんと(710)大きな平城京」という年号の覚え方が有名です。
平城京は、当時の世界最大の都市であった、中国・唐の都「長安(ちょうあん)」をお手本にして作られました。
都の中心を朱雀大路(すざくおおじ)という大きな道が南北に貫き、東西の道路が碁盤の目のように規則正しく配置された、計画的な都市でした。
北端には天皇の住まいである平城宮(へいじょうきゅう)があり、役所が立ち並んでいました。
都の中には、東市・西市という2つの大きな市場が設けられ、全国から集まった産物や、大陸からの輸入品などが取引されました。
また、東大寺や興福寺といった大きな寺院が建てられ、仏教文化の中心地ともなりました。
人口は約10万人ともいわれ、貴族や役人、僧侶、商人、職人など、多くの人々が暮らす国際色豊かな大都市でした。
平城京を都とする奈良時代の政治は、701年に完成した法律「大宝律令(たいほうりつりょう)」に基づいて行われました。
この法律に基づく政治の仕組みを「律令制度(りつりょうせいど)」と呼びます。
天皇のもとに、二官(神様ごとを担当する神祇官と、政治全般を担当する太政官)が置かれ、さらに太政官のもとに、実務を担当する八省という役所が置かれました。
これにより、政治の仕事が役割分担され、効率的に行われるようになりました。
全国は、国(こく)、郡(ぐん)、里(り)という行政単位に分けられました。
都から国司(こくし)という役人が派遣され、その国の政治を行いました。
郡の役人である郡司(ぐんじ)には、その地方の有力な豪族が任命されました。
律令国家の財政は、人々が納める税によって支えられていました。
戸籍(こせき)に基づいて、6歳以上の男女には口分田(くぶんでん)という田ん.が与えられました。
その代わりに、人々は重い税を負担しなければなりませんでした。
| 税の種類 | 内容 |
|---|---|
| 租(そ) |
収穫した稲の約3%を、国に納める税。 |
| 庸(よう) |
成人男性が、年に10日間、都で働く労役(労働)の義務。 または、その代わりに布を納める。 |
| 調(ちょう) |
その地方の特産品(絹、布、塩、海産物など)を納める税。 |
雑徭(ぞうよう): 国司のもとで、年に60日以内、土木工事などの労役を行う。
兵役(へいえき): 成人男性の一部が、軍団の兵士として訓練を受けたり、都の警備や、九州北部の防衛にあたる防人(さきもり)として派遣されたりした。
これらの税や労役は、人々にとって非常に重い負担でした。
特に、庸・調を都まで自分で運ばなければならなかったり、防人として遠い九州まで行かなければならなかったりしたため、口分田を捨てて逃げ出す(逃亡・浮浪)農民が後を絶ちませんでした。
この奈良時代の国家システムを根底から支えていたのが、大化の改新で示された2つの重要な原則です。
「すべての土地と人民は、国家(天皇)のものである」という原則。
この公地公民の原則にもとづいて、6年ごとに作られる戸籍に従い、6歳以上の男女に口分田を与え、その人が死ねば国に返させるという土地制度。
この仕組みによって、国家は人民を直接支配し、人々から確実に税を徴収することができたのです。
奈良時代は、710年に平城京へ都が移されたことから始まります。
平城京は、唐の長安をモデルにした、碁盤の目のような計画都市でした。
政治は「大宝律令」に基づく律令制度によって運営されました。
律令制度の基本は、「公地公民」の原則と、「班田収授の法」という土地制度でした。
人々は口分田を与えられる代わりに、「租・庸・調」をはじめとする重い税負担を強いられ、生活は非常に苦しいものでした。
このように、奈良時代は、法律と整然とした都を持つ、本格的な中央集権国家が完成した時代でしたが、その一方で、その国家システムを支える農民たちの重い負担の上に成り立っていた時代でもあったのです。