室町幕府の力は、3代将軍・足利義満の時代に頂点に達しましたが、その後は次第に衰えていきました。
そして、京都を舞台に約11年間も続いた全国規模の大乱「応仁の乱(おうにんのらん)」をきっかけに、幕府の権威は完全に失われ、力ある者が支配する「戦国時代」へと突入します。
応仁の乱は、一つの原因だけでなく、複数の対立が複雑に絡み合って起こった大乱です。
将軍の跡継ぎ問題
8代将軍・**足利義政(あしかがよしまさ)は、なかなか子どもが生まれなかったため、弟の義視(よしみ)**を次の将軍にしようとしました。
しかし、その後、妻の**日野富子(ひのとみこ)との間に息子の義尚(よしひさ)**が誕生。
富子は我が子を将軍にしたいと強く願いました。
有力守護大名の家督争い
斯波氏(しばし)や畠山氏(はたけやまし)といった有力な守護大名の家でも、跡継ぎをめぐる争いが起きていました。
有力守護大名の対立
上記の①と②の対立が結びつき、幕府の実力者であった**細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)**の対立が激化。
全国の守護大名を巻き込む大きな争いへと発展しました。
| 東軍 | 西軍 | |
|---|---|---|
| 総大将 | 細川 勝元 | 山名 宗全 |
| 支援する将軍候補 | 足利 義視(弟) | 足利 義尚(息子) |
| 兵力 | 約16万 | 約11万 |
| 陣を置いた場所 | 京都の東側 | 京都の西側 |
京都の荒廃: 主な戦場となった京都は焼け野原となり、多くの神社仏閣や貴族の屋敷が焼失し、文化財も失われました。
公家や文化人の多くは、戦乱を逃れて地方へ移り住みました。
勝者のいない戦い: 約11年も続いた戦いでしたが、総大将の細川勝元や山名宗全が相次いで亡くなるなど、明確な勝敗がつかないまま、うやむやな形で終わりました。
室町幕府の権威失墜: 最大の影響は、将軍や幕府にこの大乱を止める力が全くないことを全国の武士に示してしまったことです。
これにより、室町幕府の権威は地に落ち、有名無実の存在となっていきました。
応仁の乱の後、幕府の力が及ばなくなった社会では、新たな風潮が生まれます。
「下(身分の低い者)が上(身分の高い者)に剋(か)つ」という意味です。
家臣が主人である守護大名を倒したり、農民が団結して領主を追い出したりするなど、実力さえあれば、身分に関係なく上の者に取って代わることができるという考え方が広まりました。
応仁の乱で力をつけた守護代(守護の家来)や地方の武士が、守護大名に取って代わり、実力で領地を支配する戦国大名が登場しました。
彼らは、国を豊かにし、家臣をまとめるために、**分国法(ぶんこくほう)**と呼ばれる独自の法律を作り、領国を治めました。
(例:甲州法度之次第、塵芥集など)
農民たちも、村ごとに団結(惣)して、重い年貢に反対したり、領主を追い出したりする**一揆(いっき)**を各地で起こしました。
山城国一揆(やましろのくにいっき): 武士たちを追い出し、8年間も農民による自治を行った。
加賀の一向一揆(かがのいっこういっき): 浄土真宗の信者が団結し、守護大名を倒して約100年間も自治を行った。
応仁の乱は、京都を焼け野原にし、室町幕府の力を完全に失わせました。
この乱をきっかけに、「下剋上」の風潮が全国に広がり、守護大名に代わって戦国大名が実力で国を治める「戦国時代」が、約100年間にわたって続くことになったのです。