18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパやアメリカの国々(欧米列強)は、産業革命によって大きな力をつけ、アジアの広い地域を次々と支配下に置き、植民地を広げていきました。
ここでは、その背景と各地域の状況について解説します。
18世紀後半にイギリスで始まった産業革命が、この動きの大きなきっかけでした。
蒸気機関の発明など技術が大きく進歩し、工場で機械を使って製品を大量生産できるようになりました。
すると、欧米諸国は以下のものを求めて、アジアへ進出するようになったのです。
● 製品を売る市場: 大量に作った綿織物などの製品を売るための、新しい市場が必要になりました。
● 原料の供給地: 工場で製品を作るための原料(綿花など)を安く手に入れる場所が必要になりました。
こうして、強大な軍事力を背景に、欧米列強はアジアの国々に不平等な条約を結ばせたり、直接支配したりして植民地を広げていきました。
かつて強大な力を持っていたムガル帝国が18世紀に衰えると、イギリスとフランスがインドへの影響力を強めようと争いました。
● イギリスの支配確立: イギリスは1757年のプラッシーの戦いでフランスを破り、インドでの優位を確立しました。
その後、イギリス東インド会社が中心となり、マイソール戦争やマラーター戦争などを通じて、19世紀半ばまでにインドのほぼ全土を支配下に置きました。
● インド大反乱と直接統治: 1857年、イギリスの支配に対してインド人兵士(シパーヒー)が蜂起したインド大反乱が起こりました。
イギリスはこの反乱を鎮圧すると、東インド会社を解散させ、インドを本国の直接支配下に置きました。
そして1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が成立しました。
● 植民地支配の影響: イギリスは、インドで伝統的に盛んだった綿織物業に高い税金をかける一方で、イギリス製の安い綿製品を大量に輸出したため、インドの綿織物業は大きな打撃を受けました。
また、食料の生産地を綿花や茶、アヘンなどを栽培するプランテーションに変えさせたため、インドでは食料が不足し、飢饉に苦しむ人々も出ました。
当時の清(中国)は、ヨーロッパとの貿易を制限していました。
イギリスは清から茶や絹などを大量に輸入していましたが、イギリスから清へ輸出するものは少なく、貿易はイギリス側の大幅な赤字でした。
● 三角貿易とアヘン: この赤字を解消するため、イギリスはインドで栽培させたアヘン(麻薬)を、清に密輸しました(三角貿易)。
● アヘン戦争: 清ではアヘン中毒者が急増し、国内の銀が大量に国外へ流出したため、1839年に林則徐という役人がアヘンの取り締まりを強化しました。
これを口実にイギリスは1840年に戦争を仕掛けました(アヘン戦争)。
● 南京条約と半植民地化: 軍事力で劣る清は敗れ、1842年に不平等な内容の南京条約を結ばされました。
この条約により、清は香港をイギリスに譲り、上海など5つの港を開くこと、多額の賠償金を支払うことなどを認めさせられました。
アヘン戦争の敗北をきっかけに、清は欧米列強によって次々と国内市場を開かされ、半植民地状態となっていきました。
この出来事は、鎖国をしていた日本にも大きな衝撃を与え、欧米への警戒感を高めるきっかけとなりました。
資源が豊かで交通の要所でもあった東南アジアも、欧米列強の標的となりました。
● フランスのインドシナ進出: フランスは、キリスト教宣教師の保護を口実にベトナムに軍を送り、植民地化を進めました。
そして、ベトナム、カンボジア、ラオスを合わせてフランス領インドシナ連邦を成立させました。
● イギリスとオランダの支配: イギリスはマレー半島やビルマ(現在のミャンマー)を、オランダはインドネシア(ジャワ島など)を支配しました。
オランダはジャワ島で、コーヒーやサトウキビなどを強制的に栽培させる制度を導入し、大きな利益を上げました。
● タイの独立維持: このような状況の中、タイはイギリス領ビルマとフランス領インドシナの間に位置するという地理的な条件を活かし、巧みな外交政策と国王を中心とした近代化を進めることで、東南アジアで唯一独立を保ちました。
このように19世紀のアジアでは、多くの国が欧米列強の植民地または半植民地となり、その経済は宗主国のために再編され、人々の暮らしは大きく変化させられました。
この厳しい時代の中から、20世紀にかけてアジア各地で独立を目指す民族運動が高まっていくことになります。