1910年、日本が、それまで独立国であった大韓帝国(韓国)を自国の領土とした出来事です。
結果: 大韓帝国は国家としては消滅し、「朝鮮」として日本の統治下に入りました。
期間: この日本の支配は、1945年に日本が第二次世界大戦で敗戦するまでの35年間続きました。
ペリー来航以来、日本は欧米諸国に植民地にされないために「富国強兵」を進めていました。
その中で、隣国である朝鮮半島にロシアなどの外国勢力が進出してくることは、日本の安全を脅かす大きな脅威だと考えていました。
そのため、日本は朝鮮半島への影響力を強める必要がありました。
日本は二つの大きな戦争を経て、段階的に韓国の主権(国を治める権利)を奪っていきました。
目的: 朝鮮半島に対する清(中国)の影響力をなくすこと。
結果: 勝利した日本は、清に朝鮮が独立国であることを認めさせました。
これは、清の影響を排除し、日本の影響力を強めるための第一歩でした。
目的: 朝鮮半島に対するロシアの影響力をなくすこと。
結果: 日露戦争にも勝利した日本は、ポーツマス条約でロシアに、韓国における日本の指導権・保護権を認めさせ、朝鮮半島からライバルを完全に排除しました。
日露戦争後、日本は強硬な手段で韓国を「保護国」(外交権などを奪われ、他国の支配下に入る国)にしました。
日本は韓国の外交権を完全に奪い、事実上の保護国としました。
首都の漢城(ハンソン、現在のソウル)に、日本の監督機関である「統監府」を設置し、初代統監には伊藤博文が就任しました。
韓国皇帝の高宗(コジョン)は、日本の支配に抵抗しようと、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に密かに使節を送りました。
しかし、この訴えは列強に無視され、失敗に終わります。
日本はこの事件を口実に、高宗を強制的に退位させ、韓国の内政権も掌握。
さらに、抵抗の力となっていた韓国軍を解散させました。
軍隊を解散させられた兵士や国民は、「義兵運動」と呼ばれるゲリラ的な抵抗運動を激しく展開しました。
初代統監であった伊藤博文が、ハルビン駅で韓国の独立運動家である安重根(アン・ジュングン)によって暗殺されました。
当初、伊藤博文は韓国をすぐに併合することには慎重でしたが、この事件をきっかけに、日本政府内で朝鮮半島を完全に支配するためには併合しかないという強硬論が強まりました。
こうした中、韓国国内では、財政が破綻寸前であり、李完用(イ・ワニョン)首相ら一部の親日的な政治家が、日本の協力なしに近代化は不可能と考え、併合を主張していました。
1910年、日韓併合条約が結ばれ、大韓帝国は日本の領土となりました。
日本は朝鮮総督府を設置し、朝鮮の人々を支配しました。
憲兵や警察といった軍事力で、独立運動などの抵抗を厳しく弾圧しました。
土地調査事業を行い、多くの農民が土地を失いました。
また、朝鮮の資源は日本のために開発されました。
特に1930年代後半から、朝鮮の人々を天皇に忠実な「皇国臣民(こうこくしんみん)」に作り変えようとする皇民化政策が強力に進められました。
創氏: 朝鮮の伝統的な「姓」とは別に、日本式の「氏(うじ)」を創ることを法的に義務付けました(強制的)。
改名: 個人の「名」を日本風に変えることです(任意)。
併合当初、朝鮮語は学校の科目として教えられていましたが、学校での朝鮮語の授業時間が徐々に削減され、朝鮮語の使用が段階的に排除されていきました。
日本の国家神道にもとづく神社への参拝や、皇居に向かって頭を下げる宮城遥拝(きゅうじょうようはい)などが強制されました。
これは、キリスト教徒など、他の信仰を持つ人々にとっては大きな苦痛となりました。
同じ「帝国の臣民」とされながら、朝鮮の人々には本土の日本人と同じ権利はありませんでした。
原則として、朝鮮半島に住む人々(朝鮮人も日本人も)には、日本の国政選挙に参加する権利はありませんでした。
例外的に、日本本土に移り住んだ朝鮮出身者には、日本人と同じ条件で参政権が与えられました。
実際に、朴春琴(ぼく しゅんきん)という朝鮮出身者が東京で選挙に当選し、衆議院議員になっています。
日本の統治には、支配や抑圧だけでなく、朝鮮社会を大きく変化させた側面もありました。
日本や満州との物流網として、交通インフラが整備されました。
これは朝鮮半島の経済活動を活発化させ、戦後の経済発展の土台の一部ともなりました。
小学校などが多数建設され、就学率やハングルを含めた識字率が向上しました。
しかし、その最大の目的は、日本語を理解し、日本の統治に従順な人間を育てる「皇民化教育」にありました。
朝鮮王朝時代にあった「白丁(ペクチョン)」などの賤民(せんみん)に対する身分制度が、法的には撤廃されました。
これは、「天皇の下では全ての臣民は平等である(一君万民)」という日本の統治理念(建前)と、徴税や徴兵のために全国民を均質に把握するという、近代国家としての統治上の必要性から行なわれました。
しかし、社会に深く根付いていた差別意識がすぐになくなったわけではなく、その後も差別撤廃を求める社会運動が続きました。
形式上は「併合」によって日本と朝鮮は「一つの国」になりました。
しかし、その実態は、統治・権利・文化のあらゆる面で、朝鮮の人々に対する深刻な差別と抑圧を伴う植民地支配でした。
一方で、日本の統治下で進められた近代化は、支配を効率化する目的があったものの、結果として戦後の朝鮮半島の社会基盤の一部を形成したという側面も持っています。
このように、日韓併合は日本の安全保障という名目のもと、軍事力を背景に韓国の主権を奪い、その後の朝鮮の人々に大きな苦しみを与え、現代に至るまで続く複雑な歴史問題の原点となりました。
初代統監であった伊藤博文が、韓国の独立運動家・安重根に暗殺されたこの事件は、日韓併合の歴史を大きく動かしました。
単純な「テロ事件」としてではなく、二人の思想や立場から背景を読み解いてみましょう。
激しい抵抗運動: 韓国では、日本の支配に抵抗する「義兵運動」が全国で激しく展開されていました。
不安定な国内: 当時の大韓帝国は、政治的・経済的に非常に不安定な状況にありました。
意外に思われるかもしれませんが、伊藤博文は、すぐに韓国を併合することには慎重な立場でした。
陸軍の山県有朋(やまがた ありとも)らが「即時併合」を主張する強硬派だったのに対し、伊藤は異なる考えを持っていました。
コストの問題: 併合には莫大な費用がかかる。
統治の不安定化: 韓国人の激しい抵抗を招き、支配が不安定になる。
伊藤の考え: 「今は保護国として日本の影響下に置き、徐々に支配を強める方が、日本の国益にとって得策だ」と考えていました。
伊藤は韓国の独立を尊重していたわけではありません。
あくまで日本の支配をより効率的に進めるための方法として、「保護国統治」がベストだと考えていたのです。
熱烈な独立運動家: 安重根は、日本の侵略に抵抗して戦った義兵の参謀中将であり、その生涯を朝鮮の独立に捧げた人物です。
安重根は、裁判の法廷で、伊藤博文を暗殺した理由を15項目挙げています。
その中心は、「伊藤博文こそが、韓国の外交権を奪い(第二次日韓協約)、皇帝を退位させ、軍隊を解散させた、韓国侵略の元凶である」というものでした。
安重根にとって、伊藤は「併合に慎重な人物」ではなく、「韓国から独立を奪った最大の敵」でした。
彼は、侵略を主導する伊藤さえいなくなれば、韓国は独立を回復できると考えていました。
安重根は、韓国独立の最大の障害と信じて伊藤博文を暗殺しました。
しかし、皮肉なことに、慎重論者であった伊藤がいなくなったことで、日本国内では「もはや併合しかない」という強硬派の声が一気に強まり、結果として日韓併合が早まる一因となったのです。
安重根の思想は、単なる反日ではありませんでした。
彼は、日本という国や明治天皇そのものを敵視していたわけではなく、日本の「侵略政策」をこそ敵視していました。
安重根の理想: 彼は、日本・清(中国)・韓国が欧米列強の侵略に対抗するため、対等な立場で協力し合うべきだという「東洋平和論」という壮大な構想を持っていました。
安重根の批判: 伊藤博文の政策は、この三国間の信頼関係を破壊し、東洋全体の平和を乱すものだと考えていました。
彼の行動は、特定の国への憎しみからではなく、「祖国の独立」と「東洋の平和」という理念に基づいていたのです。
この事件は、それぞれの人物が持つ思想や正義が、歴史の中でどのように交錯し、意図せざる結果を生むかを示す複雑な事例と言えるでしょう。