昭和の初め、日本の政治や社会は大きな混乱の中にあり、それが軍部(陸軍・海軍)が力をつける背景となりました。
1929年に始まった世界恐慌の影響で、日本も深刻な不景気(昭和恐慌)に陥りました。
特に、生糸の輸出が止まったり、米の価格が暴落したりしたことで、農村の暮らしは破壊的な打撃を受けました。
娘を身売りしたり、食事を抜いたりするほどの貧困が広がりました。
軍隊の兵士の多くは、この貧しい農村の出身でした。
彼らは、自分たちの家族を苦しめているのは、金儲けばかり考えている財閥(大企業)や、頼りにならない政党の政治家だと考え、強い不満を持つようになりました。
当時の政治は、選挙で選ばれた議員による政党政治が中心でした。
しかし、汚職事件が相次いだり、政党同士が足の引っ張り合いをしたりして、国民の信頼を失っていました。
さらに、政党内閣が外国との協調を重視し、軍備を縮小しようとしたこと(ロンドン海軍軍縮条約など)に対し、軍部は「国の防衛を弱める気か!」と激しく反発しました。
こうした状況の中、軍部、特に陸軍の若手将校たちは、次のように考えるようになります。
「腐敗した政党政治や財閥を倒し、天皇を中心とする強力な軍事国家を建設すれば、この国の危機を救える。そのためには、外国に領土を拡大し、資源を手に入れる必要がある!」
この考えのもと、彼らは政府の方針を無視して、独自の行動を取り始めるのです。
この軍部の勝手な行動が、最初に形となって現れたのが満州事変です。
世界恐慌による経済危機を乗り越えるため、鉄鉱石や石炭などの資源が豊富な中国の東北部「満州」を、日本の生命線として確保しようとしました。
1931年9月、満州に駐留していた日本の軍隊(関東軍)が、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、自ら南満州鉄道の線路を爆破しました。
そして、これを「中国軍のしわざだ」と偽って、中国軍への攻撃を開始しました。
東京の政府(若槻礼次郎内閣)は、「これ以上、軍事行動を拡大するな(不拡大方針)」と命令しました。
しかし、関東軍は政府の命令を完全に無視し、戦線を拡大。
わずか数ヶ月で満州の主要部をすべて占領してしまいました。
これは、軍が政府のコントロールを離れて暴走した、決定的な事件でした。
満州事変の後、軍部の影響力は国内でさらに強まり、それに反対する人々を暴力で黙らせる動きが活発になります。
海軍の青年将校らが首相官邸に乱入し、犬養毅(いぬかい つよし)首相を暗殺しました。
犬養首相は、満州国の承認に反対するなど、軍の行動を止めさせようとしていました。
この事件の衝撃により、政党から首相を選ぶという慣例が終わり、日本の政党政治は事実上ここで終わりました。
以後、首相は軍人や官僚から選ばれるようになり、軍部の政治への発言力が飛躍的に高まりました。
陸軍の青年将校らが約1400人の兵を率いてクーデターを起こし、東京の中心部を占拠。
大臣などを殺害しました。
反乱は鎮圧されましたが、陸軍はこの事件を逆に利用して、政府内での発言力をさらに強め、軍備の拡大を進めていきました。
● 昭和恐慌と政党政治への不信を背景に、軍部が国民の支持を集めて力をつけ始めました。
● 軍(関東軍)は政府の命令を無視して満州事変を起こし、満州国を建国。軍の暴走が始まりました。
● 国内では五・一五事件や二・二六事件といったテロやクーデターが起こり、政党政治は終わりを告げました。
この結果、政府は軍部の行動を止めることができなくなり、日本は軍部主導で、中国との全面戦争、および太平洋戦争へと突き進んでいくことになるのです。