大正時代は、第一次世界大戦中の好景気(大戦景気)や、民主主義を求める「大正デモクラシー」の風潮の中で、人々の暮らしや社会が大きく変化した時代です。
特に、1918年(大正7年)に起きた米騒動は、その後の政治や社会運動に大きな影響を与えました。
米騒動は、お米の値段が異常に高くなったことが直接の原因です。
背景にはいくつかの理由が重なっていました。
第一次世界大戦による好景気: 日本の工業が発展し、都市に人口が集中したことで、米の消費量が増えました。
シベリア出兵: 政府がシベリアへ軍隊を送ることを決めると、商人たちが軍隊用の米需要を見込んで、米を大量に買い占めたり、値段が上がるまで売るのをやめたり(売り惜しみ)しました。
物価の上昇: 好景気により、米だけでなく様々なものの値段が上がっていましたが、給料の上昇がそれに追いつかず、人々の生活は苦しくなっていました。
このような状況で米の値段が2倍、3倍にも跳ね上がり、人々の不満は限界に達していました。
1918年7月、富山県魚津町の主婦たちが、米を県外に運び出すのをやめて安く売るよう米屋に求めて集まったのが始まりです。
この動きが新聞で報じられると、またたく間に全国へ広がりました。
都市の労働者や農村の人々が米屋や裕福な商人の家を襲うなど、全国的な暴動に発展し、政府は軍隊を出動させて鎮圧にあたりました。
この大きな騒動の責任をとって、寺内正毅内閣は総辞職しました。
そして、その後に成立したのが、「平民宰相」と呼ばれた原敬(はら たかし)を首相とする、日本で最初の本格的な政党内閣でした。
米騒動は、国民の力が内閣を倒し、新しい政治の形を生み出すきっかけとなった重要な出来事でした。
米騒動をきっかけに、国民は自分たちの力で社会や政治を動かせるという意識を高めました。
大正デモクラシーの風潮の中、様々な立場の人が自らの権利を主張し、団結して声を上げるようになります。
労働条件の改善や賃金の引き上げを求めるストライキ(労働争議)が全国で頻発しました。
労働組合の全国組織である日本労働総同盟(友愛会が発展したもの)などが運動の中心となりました。
地主に対して小作料(農地を借りる代金)の引き下げなどを求める小作争議が各地で起こりました。
1922年には、日本で最初の全国的な農民組織である日本農民組合が結成されました。
女性の地位向上を目指す運動も盛んになりました。
平塚らいてうは、「元始、女性は実に太陽であった」という言葉で知られる雑誌『青鞜』を発行しました。
1920年、平塚らいてうや市川房枝らは新婦人協会を結成し、女性が政治活動に参加する自由を求めて活動しました。
長い間、差別に苦しんできた被差別部落の人々が、自らの手で差別からの解放を勝ち取ろうと立ち上がりました。
1922年、京都で全国水平社が結成されました。
その創立大会で読み上げられた水平社宣言は、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉で結ばれ、日本で最初の人権宣言といわれています。
このように、大正時代には、米騒動という大きな出来事を転機として、労働者、農民、女性、そして被差別部落の人々など、これまで声を上げにくかった人々が団結し、より良い社会を目指して活発に活動を始めたのです。