摂関政治が最も栄えた、10世紀から11世紀頃に、都の貴族たちを中心として栄えた文化です。
「国風」とは、「日本風」という意味です。
奈良時代から平安時代初期にかけて、日本の文化は遣唐使がもたらす唐(中国)の文化をお手本にしていました(これを唐風文化といいます)。
しかし、9世紀末になると、唐が衰えて国内が乱れてきたことなどから、菅原道真(すがわらのみちざね)の提案により、894年に遣唐使が停止されます。
これにより、これまでのように直接中国文化が入ってくることが少なくなりました。
その結果、日本人は、これまでに取り入れてきた唐の文化を、日本の風土や日本人の感性に合わせて、自分たち独自の「日本らしい」文化へと発展させていきました。
これが国風文化です。
国風文化が花開く上で、最も重要だったのが「かな文字」の発明です。
日本にはもともと文字がなかったため、中国から伝わった漢字をそのまま使ったり、漢字の音を借りて日本語を表記する「万葉がな」を使ったりしていました。
しかし、漢字や万葉がなは画数が多く、複雑で、特に日常の感情などを自由に表現するには不便でした。
そこで、漢字を簡略化して、日本語の発音を表す、より簡単な文字が作られました。
平がな(ひらがな): 漢字の草書体(崩し字)から作られました。
片かな(カタカナ): 漢字の一部分をとって作られました。
この簡単で美しい「かな文字」ができたことで、特に宮廷に仕える女性たちが、自分の感情や、日々の出来事を、日本語の話し言葉に近い感覚で自由に書き表すことができるようになりました。
これが、この時代に優れた女流文学が次々と生まれた、最大の理由です。
かな文字の登場により、天皇や后に仕える教養の高い女性たち(女房:にょうぼう)によって、素晴らしい文学作品が生み出されました。
作者: 紫式部(むらさきしきぶ)
内容:
主人公である光源氏(ひかるげんじ)の恋愛や栄華、苦悩を描いた、世界最古ともいわれる長編恋愛小説です。
貴族社会の華やかな生活だけでなく、登場人物の心の動きを細やかに描いた点で非常に優れており、「もののあはれ」という、しみじみとした情趣を文学のテーマとしました。
作者: 清少納言(せいしょうなごん)
内容:
「春はあけぼの…」の書き出しで有名な随筆(ずいひつ)です。
作者が宮廷で体験したことや、自然の美しさ、身の回りの物事について、鋭い観察眼と、明るく知的な文章で書き綴っています。
「をかし」という、明るく知的な趣をテーマとしています。
編者: 紀貫之(きのつらゆき)ら
内容:
天皇の命令によって編纂された、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)です。
優雅で洗練された和歌が多く収められています。
紀貫之が書いた序文(かな序)は、かな文字による優れた文章として有名です。
この他にも、『土佐日記』など、男性がかな文字で書いた日記文学も生まれました。
当時の貴族は、寝殿と呼ばれる中心の建物を中心に、池や庭園を配した、自然と一体化した開放的な邸宅に住んでいました。
男性は束帯(そくたい)、女性は十二単(じゅうにひとえ)といった、優雅で美しい装束を身につけていました。
平安時代中期になると、仏教の教えの中に「末法思想(まっぽうしそう)」という、「やがて仏法の力が衰え、世の中が乱れる時代が来る」という終末論的な思想が広がりました。
この不安から、貴族たちの間では、「阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じ、念仏(南無阿弥陀-仏)を唱えれば、死後、極楽浄土(ごくらくじょうど)というすばらしい世界に生まれ変われる」という浄土信仰が流行しました。
この信仰を背景に、藤原頼通は平等院鳳凰堂を建てました。
これは、極楽浄土の宮殿を地上に再現しようとしたものだと言われています。
国風文化は、894年の遣唐使停止をきっかけに、唐の文化を日本風にアレンジして生まれた貴族中心の文化です。
かな文字の発明が、紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』といった、優れた女流文学を生み出す原動力となりました。
貴族たちは寝殿造の邸宅に住み、不安な世の中から救われたいという思いから、浄土信仰を篤く信仰し、平等院鳳凰堂のような美しい寺院を建立しました。