源頼朝の死後、2代将軍に息子の源頼家、3代将軍に弟の源実朝が就任しますが、二人とも若く、政治的な力は強くありませんでした。
その中で、頼朝の妻であった北条政子(ほうじょうまさこ)とその父・北条時政(ほうじょうときまさ)が、幕府の実権を握り始めます。
もともとは将軍を補佐する役職でしたが、次第にその力は強くなり、事実上の幕府の最高責任者となりました。
初代執権となった北条時政の後を継いだ、2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の時代に、有力な御家人たちを次々と倒し、北条氏の権力は絶対的なものとなっていきました。
源氏の将軍が3代で途絶えると、幕府は京都から貴族の子(藤原頼経)を名目上の将軍として迎え入れ、政治の実権は完全に執権である北条氏が握ることになりました。
幕府が力を強める一方、政治の実権を武士に奪われた朝廷では、不満が高まっていました。
特に、中心人物であった後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、幕府を倒し、朝廷の力を取り戻そうと考えました。
1221年、後鳥羽上皇は、執権・北条義時を討伐せよという命令(院宣)を全国の武士に出し、兵を挙げました。
「上皇様に逆らうのか」と、鎌倉の御家人たちは大きく動揺しました。
この危機的な状況で立ち上がったのが、尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれていた北条政子でした。
政子は御家人たちを前に、「故右大将(頼朝公)の御恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそその恩に報いる時です」と涙ながらに訴え、御家人たちの心を一つにまとめました。
政子の言葉で奮い立った幕府軍は、大軍を京都へ送り、朝廷軍を打ち破りました。
これにより、日本で初めて武士が朝廷との戦いに勝利するという、歴史的な出来事となりました。
対立: 崇徳上皇 VS 後白河天皇(兄弟げんか)
内容: 次の天皇の位と、朝廷の主導権をめぐる皇室内部の争いに、藤原氏の内部対立や、源氏・平氏の武士たちがそれぞれ分裂して加わり、武力で衝突しました。
結果: 後白河天皇側が勝利。
源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)が活躍しました。
意義: この戦いをきっかけに、「政治の争いごとは、最終的には武士の力で決まる」ということが、誰の目にも明らかになりました。
対立: 保元の乱で勝利した武士たちの間での、主導権争い。
内容: 後白河天皇の側近であった藤原氏同士の対立に、平清盛と源義朝が巻き込まれる形で戦いました。
結果: 平清盛が勝利し、源義朝は敗死。
義朝の子である源頼朝(みなもとのよりとも)は、幼かったため伊豆に流されました。
意義: この乱に勝利したことで、平氏がライバルである源氏を退け、武士として唯一、朝廷で最高の地位を築く道が開かれました。
承久の乱の勝利は、幕府と朝廷の力関係を決定的に変えました。
幕府は、乱の首謀者である後鳥羽上皇など3人の上皇を島流しにしました。
京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)という役所を置き、朝廷の監視と西日本の武士の統制を強めました。
朝廷側の貴族や武士から取り上げた土地は、幕府側の御家人に恩賞として与えられ、幕府の支配力は西日本にも及ぶようになりました。
承久の乱の後、3代執権となった北条泰時(ほうじょうやすとき)は、安定した政治を目指しました。
泰時は、日本で初めての武家法である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定しました。
これは、源頼朝以来の先例や、武士社会での慣習(道理)を基準にした法律です。
土地の相続や裁判の基準などを明確に定めたこの法律は、御家人たちの幕府への信頼を高め、その後の武家社会の基本となりました。
源頼朝の死後、北条氏が執権として幕府の実権を握る「執権政治」が始まりました。
1221年の承久の乱で、幕府が後鳥羽上皇を中心とする朝廷軍を破ったことで、幕府の力は朝廷を完全に上回りました。
乱後、3代執権・北条泰時が御成敗式目を制定し、武士による公平で安定した政治の基礎を築き、執権政治は確立されました。