明治政府は、薩摩・長州など一部の藩の出身者たちが中心となって政治を行う「藩閥政治」でした。
これに対し、国民の意見を政治に反映させるべきだという声が高まっていきます。
征韓論(武力で朝鮮に開国を迫る考え)をめぐる対立で敗れ、政府を去った板垣退助(いたがき たいすけ)や後藤象二郎らが、政府に『民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)』を提出しました。
「政治は一部の役人だけで決めるべきではない。
国民から選ばれた代表者による国会(民撰議院)を開いて、みんなで議論して決めるべきだ!」と要求しました。
この建白書の提出が、自由民権運動の始まりです。
この運動は、初めは政府に不満を持つ士族(元武士)が中心でしたが、やがて地主や豊かな農民(豪農)、そして一般の国民へと全国に広がっていきました。
全国各地で演説会が開かれ、政治を学ぶ結社(政社)が作られました。
国会開設の準備として、日本初の政党である自由党(党首:板垣退助)や立憲改進党(党首:大隈重信)が結成されました。
弾圧: 政府は、新聞紙条例や集会条例といった法律を作り、政府を批判する言論や政治活動を厳しく取り締まりました。
懐柔(かいじゅう): 一方で、国民の不満を抑えるため、1881年に「10年後の1890年に国会を開設することを約束します」という国会開設の勅諭(ちょくゆ)を出しました。
国会を開くには、国の仕組みを定める基本のルール、つまり憲法が必要です。
政府は、国会開設の約束と同時に、憲法の準備を始めました。
伊藤博文はヨーロッパへ渡り、各国の憲法を調査しました。
その結果、君主(皇帝)の力が強いドイツ(プロイセン)の憲法が、天皇を中心とする日本の国づくりに最も適していると考え、これを手本にしました。
国民の代表が議論して作るのではなく、伊藤博文らが中心となって、政府内で秘密裏に草案が作られました。
その後、天皇の相談機関である枢密院(すうみついん)で審議され、完成しました。
1889年2月11日、ついに大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。
国民が作ったのではなく、天皇が国民に与えるという形式をとりました。
天皇主権: 国の主権は天皇にありました。
天皇は神聖で侵すことのできない存在とされ、軍隊を直接指揮する権利(統帥権 とうすいけん)など、非常に大きな権限(天皇大権)を持っていました。
臣民の権利: 国民は「臣民(しんみん)」と呼ばれました。
言論や信教の自由などの権利は認められましたが、すべて「法律の範囲内において」という条件付きでした(法律の留保)。
これは、政府が法律を作れば、いつでも国民の権利を制限できることを意味していました。
帝国議会の開設: 憲法に基づき、貴族院と、選挙で選ばれる衆議院の二院制からなる帝国議会が置かれました。
ただし、最初の選挙では、直接国税を15円以上納める25歳以上の男性にしか選挙権がなく、有権者は全人口の約1.1%にすぎませんでした。
自由民権運動という国民からの「下からの突き上げ」があったからこそ、政府は国会開設と憲法制定を約束しました。
しかし、実際に作られた大日本帝国憲法は、伊藤博文ら政府が主導した「上からの改革」であり、国民の権利よりも天皇や政府の権力が強いものでした。
それでも、この憲法と議会ができたことで、日本はアジアで最初の立憲国家(憲法に基づいて政治を行う国)となり、近代国家としての一歩を大きく踏み出したのです。