奈良時代の都・平城京は、約70年間、日本の政治と文化の中心として栄えました。
しかし、8世紀の終わり頃、桓武天皇(かんむてんのう)は、この平城京を離れて新しい都を造ることを決意します。
その背景には、いくつかの大きな理由がありました。
これが最大の理由です。
奈良時代、聖武天皇の時代から、東大寺をはじめとする仏教寺院は国家の厚い保護を受けて、非常に大きな力を持つようになりました。
やがて、僧侶たちが政治に口を出すようになり、仏教勢力の政治への影響力が、天皇の権威を脅かすほど強くなってしまいました。
桓武天皇は、この強力な寺院がひしめく平城京を離れることで、仏教と政治を切り離し、天皇中心の政治(律令政治)を立て直そうと考えたのです。
平城京は内陸の盆地にあり、大きな川がなかったため、物資の輸送などに不便な点がありました。
新しい都は、水運の便が良い場所が求められました。
平城京では、皇族や貴族の間で権力争いや暗殺事件が相次ぎました。
新しい都を造ることで、こうした過去のしがらみを断ち切り、人心を一新して、新しい政治を始めるという狙いもありました。
桓武天皇の遷都は、一度で完了したわけではありませんでした。
まず、桓武天皇は平城京から、山城国(現在の京都府向日市・長岡京市あたり)の長岡京に都を移しました。
この場所は、桂川や淀川が近く、水運の便が良い場所でした。
しかし、都の建設責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される事件が起きるなど、不吉な出来事が相次ぎました。
そのため、わずか10年で、長岡京を放棄することになります。
794年、桓武天皇は長岡京の北東、同じ山城国の盆地に新しい都を建設し、移りました。
これが平安京です。
この794年の平安京遷都から、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を「平安時代」と呼びます。
「鳴くよ(794)うぐいす平安京」という年号の覚え方が有名です。
平安京は、現在の京都市の中心部にあたります。
この場所が選ばれたのには、地理的な利点がありました。
古代中国の思想で、都を造るのに最も理想的とされる地形「四神相応」の考えに基づいて選ばれたと言われています。
北に玄武(げんぶ)=山(船岡山)
東に青龍(せいりゅう)=川(鴨川)
西に白虎(びゃっこ)=大道(山陰道)
南に朱雀(すざく)=池(巨椋池)
このように、山や川に囲まれた、守りやすく、景色の良い場所でした。
平城京と同様に、唐の都・長安をモデルにした、碁盤の目のように整然と区画された計画都市でした。
都の中心を朱雀大路が南北に貫き、その北端に平安宮(大内裏)が置かれ、天皇の住まいや役所がありました。
朱雀大路を挟んで、右京と左京に分かれていました。
平安京には、平城京にあったような巨大な仏教寺院を、都の中に作ることは許されませんでした。
(唯一、東寺と西寺だけが官寺として認められました。)
これは、桓武天皇が遷都した最大の目的である、「仏教勢力の政治介入を防ぐ」という強い意志の表れでした。
奈良時代末期、仏教勢力の政治介入が強まったため、桓武天皇は政治を立て直すことを決意。
784年に一度長岡京へ移るが、問題が多発し、わずか10年で放棄。
794年、平安京(現在の京都市)に都を移し、ここから平安時代が始まる。
平安京は、平城京と同じく唐の長安をモデルにした計画都市だったが、都の中に巨大な寺院を置かないことで、仏教勢力との距離を保とうとした点が大きな特徴だった。
この遷都は、律令政治の再建を目指す桓武天皇の強い決意表明であり、その後の日本の政治と文化の中心となる「京都」の歴史の始まりでもありました。