この戦いは、古代の日本が経験した、初めての本格的な対外戦争での大敗北であり、その後の日本の国づくり(律令国家建設)の方向性を決定づけた、非常に重要な出来事です。
7世紀半ばの東アジアは、強大な帝国「唐(とう)」の登場によって、国際情勢が大きく動いていました。
中国を統一した唐は、その勢力をさらに朝鮮半島へと広げようとしていました。
朝鮮半島では、北の高句麗(こうくり)、南西の百済(くだら)、南東の新羅(しらぎ)の三国が、長年にわたって互いに争っていました。
日本(当時の名前は倭)は、昔から百済と非常に親しい友好関係にありました。
仏教を伝えてくれたのも百済です。
一方で、新羅とは伝統的に対立関係にありました。
このバランスが崩れる事件が起こります。
660年、唐が新羅と連合軍を組み(唐・新羅連合軍)、日本の友好国であった百済を滅ぼしてしまいました。
百済の王族や遺臣たちは、滅びた国の再興(復活)を目指し、友好国である日本に助けを求めました。
当時の日本の実力者は、大化の改新を進めていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)でした。
中大兄皇子は、この百済からの救援要請に応えることを決断します。
2万7千人ともいわれる、当時の日本の総力を挙げた大軍を朝鮮半島に派遣しました。
663年、日本の水軍と、百済の生き残りの軍隊は、朝鮮半島西岸の白村江(現在の錦江の河口付近)で、唐・新羅連合軍の水軍と激突しました。
数で勝り、はるかに優れた兵器と戦術を持つ唐の水軍の前に、日本の水軍はなすすべもなく、わずか2日間の戦闘で壊滅的な敗北を喫しました。
多くの船が燃やされ、数千人の兵士が命を落としたと言われています。
これにより、百済復興の夢は完全に断たれました。
白村江での大敗は、当時の日本の朝廷と人々に、計り知れない衝撃と危機感をもたらしました。
「次は、あの強大な唐と新羅が、日本に攻めてくるかもしれない!」
この恐怖と危機感が、日本の国防意識を一気に高めました。
九州北部の沿岸(対馬、壱岐、筑紫など)の防衛を固めるため、東国(関東地方)などから徴兵した兵士「防人」を派遣しました。
敵の侵攻を防ぐため、現在の福岡県に、巨大な土塁(土の壁)と堀からなる防御施設「水城」を築きました。
西日本の各地(特に対馬や九州北部、瀬戸内沿岸)に、百済から亡命してきた人々の指導のもと、朝鮮半島式の山城(やまじろ)を築きました。
667年、中大兄皇子は、もしもの時に内陸へ逃げやすいよう、都を飛鳥から近江の大津宮(おおつのみや)に移しました。
これが最も重要な影響です。
外国からの脅威に対抗するためには、豪族たちがバラバラに力を持ち、争っているような状態ではダメだ。
天皇を中心として国を一つにまとめ、法律(律令)に基づいて効率的に税を集め、強力な軍隊を組織できる、中央集権的な国家を急いで作らなければならない、という意識が、朝廷内で急速に共有されました。
この危機感が、その後の天智天皇による庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成や、天武・持統天皇による律令の編纂を強力に後押しし、701年の大宝律令の完成へとつながっていくのです。
白村江の戦いは、軍事的には大敗北でしたが、そのショックがあったからこそ、
国防意識が高まり、
天皇中心の中央集権国家(律令国家)の建設が一気に加速した、
という点で、日本の古代国家形成における最大の転換点(ターニングポイント)となった戦いでした。