「元寇(げんこう)」は、鎌倉時代の日本が初めて経験した本格的な外国からの侵略であり、その後の武士の社会に大きな変化をもたらした重要な出来事です。
13世紀、チンギス・ハンが建国したモンゴル帝国は、ユーラシア大陸の広大な地域を支配する巨大な帝国となりました。
その後、国名を「元」と改めた皇帝フビライ・ハンは、朝鮮半島にあった高麗を従え、日本にも元の家来となるよう要求してきました。
しかし、当時の鎌倉幕府のトップである8代執権・北条時宗(ほうじょうときむね)は、この要求をきっぱりと拒絶しました。
これにより、元は武力で日本を従わせようと、二度にわたって大軍を送り込んできたのです。
この二度の襲来を合わせて「元寇(蒙古襲来)」と呼びます。
元と高麗の連合軍約3万が、900隻の船で九州北部に攻めてきました。
元の戦い方: 元軍は、「てつはう」と呼ばれる火薬を使った武器や、集団で一斉に攻撃する集団戦法を得意としていました。
日本軍の苦戦: 日本の武士たちは、一対一で名乗りを上げて戦う「一騎打ち」が主流だったため、元軍の未知の戦い方に苦戦を強いられました。
突然の撤退: 激しい戦いの後、元軍は暴風雨に見舞われたこともあり、一夜にして引き揚げていきました。
一度目の襲来の後、時宗は再び来た元の使者を処刑し、断固として戦う姿勢を示しました。
そして、二度目の襲来に備えて、九州北部の博多湾沿岸に石塁(せきるい)(防塁)と呼ばれる石垣を築かせました。
今度は、前回をはるかに上回る約14万もの大軍が攻めてきましたが、日本の武士たちは石塁を拠点に粘り強く戦い、元軍の上陸を阻みました。
戦いが長引く中、再び巨大な台風が元軍を襲い、船団は壊滅的な被害を受けました。
この風は後に「神風」と呼ばれるようになりました。
二度にわたる戦いで、日本はなんとか国を守り抜きました。
しかし、この勝利は鎌倉幕府の土台を大きく揺るがすことになります。
恩賞が足りない: これまでの戦いでは、敵から奪った土地を「御恩」として御家人に与えることができました。
しかし、元寇は国を守るための防衛戦だったため、幕府が御家人に分け与える新たな土地がありませんでした。
戦費の自己負担: 御家人は、武器や食料を自費で用意し、命がけで戦いました。
しかし、十分な恩賞がもらえなかったため、彼らの生活は非常に苦しくなりました。
生活に困った御家人は、先祖代々の土地を手放したり、借金を重ねるようになりました。
永仁の徳政令(1297年): 幕府は、困窮した御家人を救うため、借金を帳消しにしたり、売ってしまった土地を無償で取り戻させたりする徳政令を出しました。
経済の混乱: この法令により、一時的に救われた御家人もいましたが、金融業者は「御家人にお金を貸しても返ってこない」と考え、お金を貸さなくなってしまいました。
これにより、かえって御家人の生活は行き詰まり、経済は混乱しました。
命がけで戦ったにもかかわらず、十分な見返りを得られなかった御家人の幕府に対する不満は高まりました。
鎌倉幕府の基本であった「御恩と奉公」の関係が崩れ始め、幕府の力は次第に弱まっていきました。
元寇という国難を乗り越えたものの、その後の御家人の困窮と不満は、鎌倉幕府が滅亡へと向かう大きな原因の一つとなったのです。