満州事変後も、日本は中国大陸への進出を続けており、日中間の緊張は非常に高まっていました。
北京郊外の盧溝橋で、日本軍と中国軍との間で起きた小さな武力衝突事件がきっかけとなりました。
当初は現地で解決する動きもありましたが、日本の政府は軍部の強硬な意見を抑えきれず、中国への派兵を決定。
これが日中戦争という全面戦争へと発展しました。
日本軍は、最新の兵器を持ち、「短期決戦で、一撃すれば中国は降伏するだろう」と軽く考えていました。
実際に、日本軍は首都の南京を占領するなど、主要な都市を次々と攻略しました(この際、多くの中国人の捕虜や民間人を殺害する南京事件が起きました)。
しかし、中国は降伏しませんでした。
対立していた国民党(蔣介石)と共産党(毛沢東)が、日本の侵略に対抗するために手を結び(抗日民族統一戦線)、首都を奥地の重慶に移して、アメリカやイギリスの支援を受けながら粘り強く抵抗を続けたのです。
この結果、日本の思惑は外れ、戦争は終わりが見えない「泥沼」の状態に陥っていきました。
日本が中国で苦戦している頃、ヨーロッパでも大きな戦争が始まります。
ドイツではヒトラー率いるナチス、イタリアではムッソリーニが独裁政治を行い、領土を拡大しようとしていました。
1939年、ドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦が始まりました。
日中戦争の長期化で、日本は武器や燃料などの資源が不足し、非常に苦しい状況に追い込まれていました。
資源の確保: 石油、ゴム、鉄鉱石といった、戦争を続けるために不可欠な資源が豊富な東南アジアを支配しようと考えました。
援蒋ルートの遮断: 中国(蔣介石)を支援しているアメリカやイギリスのルート(援蒋ルート)を断ち切る目的もありました。
国際連盟を脱退し、満州事変などで国際的に孤立していた日本は、同じくアメリカやイギリスと対立していたドイツ、イタリアと手を結び、1940年に日独伊三国同盟を結成しました。
日本が援蒋ルートを断つためにフランス領インドシナ北部(現在のベトナム北部)に進駐すると、アメリカはこれを強く非難。
日本への屑鉄や石油などの輸出を禁止・制限する経済制裁で対抗しました。
追い詰められた日本は、さらに危険な賭けに出ます。
日本は、さらなる資源を求めてフランス領インドシナ南部への進駐を強行しました。
これに対し、アメリカは最も厳しい対抗措置として、日本への石油の全面的な輸出禁止を決定します。
オランダやイギリスもこれに同調し、日本は石油の8割以上を断たれることになりました(ABCD包囲網)。
石油を止められた日本では、「このままでは数ヶ月で国が動かなくなる。
アメリカと戦争をしてでも、南方の資源地帯を確保するしかない」という意見が軍部を中心に支配的になりました。
政府は最後までアメリカとの外交交渉を試みましたが、決裂に終わります。
1941年12月8日(日本時間)、日本海軍はハワイのオアフ島にあるアメリカ海軍基地・真珠湾を奇襲攻撃しました。
同時に、イギリス領のマレー半島にも上陸を開始。
これにより、日本とアメリカ・イギリスなど連合国との間で太平洋戦争が始まりました。
この太平洋戦争は、すでに始まっていていた日中戦争、そしてヨーロッパでの第二次世界大戦と一体化し、世界全体を巻き込む未曾有の大戦争へと発展していったのです。