6世紀半ば(538年説が有力)のことです。
これは古墳時代の終わりの方にあたります。
仏教は、もともとインドで釈迦(しゃか)が開いた宗教です。
それが中央アジアを通り、中国、そして朝鮮半島へと伝わりました。
日本へは、朝鮮半島の百済(くだら)の王(聖明王)から、大和政権の欽明天皇(きんめいてんのう)へ、仏像や経典(きょうてん)が贈られたのが公式な伝来とされています。
このように、仏教は直接インドからではなく、中国・朝鮮半島を経由して、多くの渡来人(とらいじん)たちの手によって、様々な文化と共にもたらされたのです。
新しい宗教である仏教を、大和政権が受け入れるかどうかをめぐって、朝廷内の有力な豪族の間で激しい対立が起こりました。
代表的な人物: 蘇我氏(そがし)
主張:
百済など、外国の進んだ国々は皆、仏教を信じている。
日本もこれを受け入れるべきだ。
蘇我氏は、渡来人との関わりが深く、大陸の新しい文化や技術を積極的に取り入れようとする考えを持っていました。
代表的な人物: 物部氏(もののべし)、中臣氏(なかとみし)
主張:
日本には昔から、八百万(やおよろず)の神々(神道)がいる。
外国の神(蕃神:ばんしん)を拝むと、日本の神々の怒りを買うだろう。
物部氏は軍事を、中臣氏は朝廷の祭祀(神々のお祭り)を担当していたため、伝統的な神道を重んじる立場でした。
この対立は、単なる宗教論争ではなく、蘇我氏と物部氏という二大豪族の政治的な主導権争いでもありました。
最終的に、この争いは武力衝突にまで発展し、蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼして、蘇我氏が勝利しました。
これにより、朝廷は仏教を保護し、受け入れていく方針を固めることになります。
蘇我氏の勝利後、仏教は国家の保護のもとで、特に都の貴族や豪族たちの間に広まっていきました。
仏教の伝来は、それまで日本にはなかった、全く新しい芸術や文化をもたらしました。
これが、日本で最初の仏教文化である「飛鳥文化」です。
寺院建築: 豪族たちは、自分たちの力を示すために、競って壮大な寺を建て始めました。
法隆寺(ほうりゅうじ): 聖徳太子が建てたと伝えられる、世界最古の木造建築です。
その柱のふくらみ(エンタシス)や、壁画には、遠くギリシャやインド、中国の文化の影響が見られます。
飛鳥寺(あすかでら): 蘇我氏が建てた、日本で最初の本格的な仏教寺院です。
仏像彫刻:
渡来人の仏師(仏像を作る職人)である鞍作止利(くらつくりのとり)などが活躍し、法隆寺の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)に代表される、特徴的な仏像が作られました。
仏教は、単なる信仰の対象だけでなく、国をまとめ、人々の心を一つにするための思想としても重要視されました。
後の聖徳太子は、仏教の教えを政治の基本理念の一つとし、「篤く三宝を敬え。
三宝とは仏・法・僧なり(あつくさんぽうをうやまえ。
さんぽうとはぶっぽうそうなり)」と十七条の憲法の中で述べ、役人たちの心のよりどころとしました。
また、後の時代には、聖武天皇が全国に国分寺を建てるなど、仏教は国家の安定と繁栄を祈るための「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想へと発展していきます。
仏教は、6世紀半ばに百済から公式に伝わりました。
受け入れをめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利しました。
仏教の伝来は、法隆寺に代表される日本初の仏教文化「飛鳥文化」を生み出しました。
また、聖徳太子が政治の理念とするなど、仏教は新しい国づくりの精神的な柱としての役割も果たしていくことになります。
このように、仏教の伝来は、日本の古代国家が、それまでの豪族連合の段階から、法律や思想を持った「律令国家」へと脱皮していくための、非常に重要なきっかけとなったのです。